光と形

鏡は何を反転するのか

左右が入れ替わるように見える鏡。鏡面に平行な方向と垂直な方向を分けると、像の仕組みが分かる。

鏡の前で右手を上げると、向こう側の人物は左手を上げているように見えます。けれど、頭が下に、足が上になるわけではありません。なぜ鏡は左右だけを選ぶのでしょうか。

この問いを考えるには、いったん身体の「左右」から離れ、鏡の面を基準にしてみると整理できます。ここで扱うのは、表面が平らな理想的な鏡です。

鏡の面に沿う方向と、面を横切る方向

同じ x、鏡面から同じ距離

平面鏡の対応点と等しい距離x-z平面の断面図。鏡面z=0を水平に描き、点Pと虚像Qは同じx座標にある。鏡面から法線方向に測った距離dは等しく、zの符号が反転する。破線は対応を示し、光線ではない。 鏡面 z = 0 物体 P (x, z) 虚像 Q (x, −z) dd +z−z x

P は物体の点、Q は虚像の点。

破線は点の対応、短い横棒つきの線は距離 d。矢印は座標の向きです。

(x, y, z) → (x, y, −z)

x-z平面で切った断面の模式図です。y方向は省略していますが、yも変わりません。鏡の法線方向だけ符号が変わります。破線は光線や点の移動経路ではなく、Qの位置に実物があるという意味でもありません。

壁に掛けた鏡を考えましょう。鏡の面に沿って右へ動くと、像も同じ側へ動きます。上へ動けば、像も上へ動きます。鏡に平行な方向の位置は入れ替わっていません。

違うのは、鏡に垂直な方向です。鏡の手前にある点の像は、鏡の向こう側の、面から同じ距離の位置にできます。手前と向こうを結ぶ線は鏡に垂直です。この対応を、鏡面についての面対称と呼びます。

座標を使うなら、鏡を z = 0 の面としたとき、像の位置は次のようになります。

(x, y, z) → (x, y, −z)

鏡の面に沿う x と y はそのままで、垂直方向の z だけ符号が変わります。鏡を床に水平に寝かせれば、今度は身体の上下が鏡に垂直な方向になります。「いつも身体の左右だけを反転する」という決まりではないのです。

向こう側の像は、そこに物体があるという意味ではない

物体から出て鏡で反射した光が目に入ると、その光は鏡の向こうから来たように見えます。反射後の光の道筋を、鏡の裏へまっすぐ延長すると、像の位置に行き着きます。

このように、光がそこから出ているように見える像を虚像と呼びます。鏡の裏にもう一人の人物がいるわけでも、反射した光がその像の位置を実際に通っているわけでもありません。「面対称の位置」とは、見える像の位置を説明するものです。

では、どうして左右が逆だと感じるのか

自分と向かい合った人の姿と、鏡像を比べてみましょう。ここでは、頭と足を保ったまま、自分の姿を鉛直な軸のまわりに180度回転して向かい合わせると考えます。

この回転は、前後に加えて左右の向きも変えます。ところが鏡の面対称は、先ほどのとおり鏡に垂直な方向だけを変えます。二つの操作が違うため、「向かい合う人ならこちらが右手のはずなのに」というずれが生まれます。

右手に目印を付けて鏡を見ると、その像は、鏡に平行な左右の位置で見れば同じ側にあります。それを向こう向きの人物の身体として読むと、左手に相当する配置に見えるのです。空間のどちら側にあるかと、その人物にとってどちらの手かは、別の問いです。

回しても重ならない形がある

同じ姿勢に固定した左右の手を、厚みのある立体として考えてみましょう。親指だけでなく、手のひら・手の甲まで一致させようとすると、移動や回転だけでは重ねられません。鏡に映すと、この左右の関係が入れ替わります。

このように、形を変えずに移動・回転しても鏡像と重ならない性質をキラリティといいます。理想的な右ねじと左ねじの関係もその例です。一方、模様のない球なら、その鏡像と重ねられます。鏡像ならどんな形でも元と重ならない、というわけではありません。

ここまでの話には、三つの段階があります。光の反射から像の位置を決めること。身体の向きを比較して左右を読むこと。そして、立体を回して鏡像と重ねられるか調べることです。区別してみると、「鏡は左右を逆にする」という一言に、いくつもの問いが詰まっていたと分かります。

発展:鏡映・回転・パリティを式で比べる

鏡面を z = 0、鉛直方向を y としたとき、鏡映は (x, y, z) → (x, y, −z)、鉛直軸のまわりの180度回転は (x, y, z) → (−x, y, −z) です。違うのは x の符号です。これが、先ほどの左右の比較を座標で表したものです。

三つの座標を全部反転する (x, y, z) → (−x, −y, −z) は、空間反転、またはパリティ変換と呼ばれます。平面鏡の一軸の反転とは同じ操作ではありません。ただし、鏡映の後に鏡面に垂直な z 軸のまわりで180度回転すれば、この三軸の反転になります。回転を組み合わせた関係があっても、鏡映そのものと回転そのものを同一視することはできません。

発展:見る場所と、二枚の鏡

理想的な平面鏡で物体と鏡面を固定していれば、観察者が動いても、対応する虚像の位置は変わりません。変わるのは見る方向や見える範囲です。「像の位置」と「目に入る見え方」を分けて考えます。

向きの反転を測る数学の量に、行列式があります。三次元の鏡映の行列式は−1、通常の回転は+1。鏡映を二回合成すると符号は+1になります。交わる二つの鏡面についての鏡映を順に行うと、交線を軸に、二面のなす有向角の2倍だけ回転する操作になります。平行な二面なら、その間隔の2倍だけ、面に垂直な方向へ平行移動する操作です。向きは鏡映を行う順番によります。

これは空間全体に施す理想的な幾何学操作の説明です。実物の有限な鏡で、どの像まで見えるかは別に光の経路を調べます。

続き:分子の鏡像から、2026年の化学賞へ

鏡像と重ならない形は、分子の立体配置にも現れます。続編「分子にも右手と左手がある? キラリティと2026年ノーベル化学賞」では、鏡像異性体と、反応が一方への偏りを増幅する研究をたどります。幾何学のキラリティ、物理法則のパリティ、生命の起源の問いを分けながら考えます。

出典・さらに読む

参照日:2026年10月20日。座標式と二回の鏡映の関係は、面対称の式から計算しています。