鏡の記事では、回しても鏡像と重ならない形を考えました。このキラリティは、原子の立体的な配置にも現れます。
2026年10月7日、ノーベル化学賞は Henri B. Kagan(アンリ・カガン)と硤合憲三(Kenso Soai)に授与されると発表されました。授賞理由は、不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見です。身近な鏡の話は、分子の作り方をめぐる研究へつながっています。
分子の鏡像も、回すだけでは重ならないことがある
原子の種類とつながりが同じでも、空間での並び方が違う場合があります。そのうち、互いに鏡像でありながら、全体を移動・回転するだけでは重ならない一組が**鏡像異性体(エナンチオマー)**です。
例えば乳酸は、中心の炭素に付く四つのグループが異なり、二つの鏡像の型を持ちます。反対に、どの有機分子にも必ず二つの型があるわけではありません。ここで鏡像と呼ぶのは構造どうしの関係で、分子を鏡に映すと別の分子に変わる、という意味ではありません。
「形の違い」が、相手との働き方を変える
生体内には、それ自体がキラルな分子がたくさんあります。二つの鏡像異性体は、そうした相手と同じように働くとは限りません。薬を作るときにも、どちらの型をどれだけ作るかが重要になります。
ただし、「一方は薬、もう一方は必ず毒」という一般則ではありません。型の違いがどう働くかは、分子と相手によって確かめる必要があります。
カガンの発見:偏りは単純な比例とは限らない
二つの型のうち一方を多く作る合成を、不斉合成といいます。反応を助ける触媒にも鏡像の型があるとき、触媒側の偏りが、そのまま同じ割合で生成物へ移るとは限りません。
カガンは、触媒の偏りと生成物の偏りの関係が直線にならない非線形効果を示しました。条件によっては、触媒側の偏りより大きな偏りを生成物に生み出せます。「少し偏ったものからは、その程度に偏ったものしか作れない」という予想を越える研究です。
硤合の発見:できたものが、次の生成を助ける
原料からの変化と、反応を助ける働き
実線矢印:原料から生成物へ。
左の破線矢印:生成物Pが反応を促進。
反応でできた生成物が、その反応を助ける触媒としても働くことを自己触媒といいます。硤合は、生成した分子が同じ鏡像の型の生成を助け、偏りを増幅する不斉自己触媒反応を実現しました。
分子が何もない所から増えるわけではありません。原料を反応で変えながら生成物が増え、その生成物が次の反応を助けます。ごく小さな差が大きくなる仕組みを、実際の化学反応として示したのです。
生命の「片方への偏り」と、まだ残る問い
タンパク質を作る標準的なアミノ酸は、キラルなものについては基本的にL型にそろっています。グリシンは鏡像と重なるため、この二択には入りません。このような一方の型へのそろい方が、生命のホモキラリティの話題です。「生物には反対の型が一切ない」という意味にはなりません。
受賞研究は、偏りを化学反応で増幅できることを示しました。それでも、実験室の反応がそのまま太古の地球で起きた、と決まったわけではありません。生命が実際にどの経路で今の偏りを得たかという歴史の問いは残ります。
なお、L/D、立体配置を表すR/S、光の偏りの面を回す向きを表す+/−は、同じ基準のラベルではありません。ここでいう「右手・左手」は鏡像の関係のたとえで、これらの記号を一括りに読み替えるものではありません。
発展:パリティの破れとは、どこが違うのか
鏡像と重ならないという形の性質と、鏡映に対応する操作をしたときにも同じ物理法則が成り立つかという対称性の問いは区別します。
1956年末から行われた呉健雄らのコバルト60のベータ崩壊実験は、弱い相互作用でパリティが保存されないことを示しました。これは、2026年の化学賞の受賞理由である非線形効果・自己触媒作用とは別の研究です。パリティの破れだけから、生命が選んだ型やその歴史を説明できたことにもなりません。
鏡で始まった問いは、分子の形、反応による偏りの増幅、物理法則の対称性へと広がります。何についての「左右」なのかを分けることが、そのつながりを正しく読む手がかりになります。
出典・さらに読む
- スウェーデン王立科学アカデミー:2026年ノーベル化学賞の発表(2026年10月7日)。
- 同アカデミー:一般向け解説 — 非線形効果と自己触媒研究のつながり。
- 硤合憲三:不斉自己触媒と生体分子のホモキラリティ(PDF) — 研究者による説明。
- IUPAC:Chirality、OpenStax:鏡像異性体、アミノ酸の構造 — 用語と基礎的な立体構造。
- NIST:パリティ保存則を覆した実験 — コバルト60のベータ崩壊実験。
参照日:2026年10月20日。受賞情報はこの時点の公式発表に基づきます。